ドイツの楽壇を代表するのがベルリン・フィルハーモニー管弦楽団(BPO)です。特に常時世界のトップ・クラスの奏者を揃える華麗な管楽器群は、歴史のあるベルリン・フィルの伝統が脈々と受け継がれており、世界の中でも一際高い評価を受けているオーケストラです。
ベルリン・フィルはベンヤミン・ビルゼのオーケストラから待遇面の不満で離れた54名に6人のメンバーを加えて1882年に発足しました。1887年にハンス・フォン・ビューローが常任指揮者となりベルリン・フィルの演奏水準は目覚しく向上した。ビューローが離れた後の1888年からはR.シュトラウスが中心となって客演を務めていましたが、1895年からはアルトゥール・ニキシュが常任指揮者に就きます。その年にはマーラーが自身の交響曲第2番「復活」3楽章の初演を指揮しています。1922年ニキシュが亡くなると、フルトヴェングラーが次の常任指揮者に就任します。
フルトヴェングラーはナチスの政策を芸術家の立場から批判したり、ユダヤ人演奏家への援助に尽力したために大戦終了まで指揮活動を禁止されたため、オーケストラはレオ・ボルヒャルトのもとで活動を続けた。1945年ボルヒャルトが不慮の死を遂げ、それを継いだのが当時全く無名のセルジュ・チェリビダッケです。フルトヴェングラーは1947年の5月「歴史的復帰演奏会」でベルリンフィルと再会し、1954年に亡くなるまで指揮を続けた。
1955年の初のアメリカ公演にはヘルベルト・フォン・カラヤンが同行し、そのまま常任指揮者となりました。ヘルベルト・フォン・カラヤンが音楽監督に就任してからは、ドイツ・グラモフォンと膨大なレパートリーの録音を行い、音楽界を席巻することになったのはよく知られるところです。その後、カラヤンの黄金時代が続いたが、ザビーネ・マイヤーの入団をめぐってベルリン・フィルとの関係が悪化し、1989年カラヤンは死の直前にベルリンフィルを離れます。
カラヤンの死後クライディオ・アバドが楽団員によって新しい音楽監督に選出されたが、自身の健康面の問題で一時代を築けず、2002年のシーズンで辞任しました。後任には楽団員による投票によりサイモン・ラトルが常任指揮者に選ばれました。ラトルは、ベルリン・フィルを政府から完全に独立させ、また一風変わったレパートリーを取り入れて、ベルリン・フィルに新風を吹き込みつつあります。
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